私は話すことに苦手意識がありました。
新人の頃会議で、議題に対してディスカッションしていた時に、
しっかりと論理的に話している人たちの中で、
どんどん意見が言えなくなり、
意見が言えないことにいたたまれずに、
席を離れてしまったことがありました。
今思えば笑ってしまうけれど、
その時は話せない自己否定が心に溢れて、
(こっそりめに)泣いてしまったこともありました。
話したいけど、話せない矛盾があったのです。
その矛盾もやがて、
ある程度意見を言うことができるようになっていきました。
私ほど話せない葛藤が強くないにしても、
プレゼンをする機会を持ったり、
論理的な社内雰囲気で働く女性の方の中には、
論理的に話すことのプレッシャーなり課題を感じた経験がある方のお話を伺うことがあります。
『上手に話ができるかできないか』
この基準で、
上手に話すことをテーマにコミュニケーションした時に、
話すことが上手な相手と、話すことを教えられる私という、
それぞれの立場に、
話を進めるほどに固定されていったことがありました。
その状態でコミニュケーションが続いていった時に、
確かに、話し方のバージョンアップは前より測るけれど、
教える側は、話せるように手助けしようと思い余計に力が入るし、
教えられる側の私は、
できてないから出来るようにならないとと、力が入っていく。
今の状況を変化させようと、
それぞれが力が入る関係になっていったことがありました。
言葉にできないけれど、
なんだか違和感を感じてしまい、ムムム。
なんだか窮屈だと感じたのです。
なぜ私は窮屈だと感じたのか?
立場が固定されていたからです。
助ける側と助けられる側に。
一見、普通のように聞こえるかもしれませんが、
立場が固定されることで、
無意識に話せない私と言う自己イメージが蓄積してしまうのです。
そんな時こそ、
認識がバージョンアップする技術n-Techの出番です。
何を自分だと規定するのか?
ここに知恵が必要なのです。
何かが出来るとか出来ないなどは関係なく、
男性や女性も関係なく、
立場も関係のない、
色んな決めつけをする前の、
色んな決めつけをデザインできる可能性だけがある自分に戻ることができるようになりました。
これは、別の言い方をすれば「尊厳」。
その尊厳の自分と相手を認識した安定感の上で、
お互いが出会い、
コミュニーケーションできる時に、
能力の違いは、
相対比較したり格差を作るものではなくて、
「こんな未熟があったんだ」と気づき、
だからこそ、
「次回〜してみたらいいね!」と
可能性をさらに具現化するワクワクするコミュニケーションができるようになったのです。
尊厳からお互いに出会う時に、
違う能力をお互いが楽しく食べて、
相乗効果で育んでいけるのです。
違いを楽しむキーワード
未熟を楽しむキーワードは、
『尊厳』
尊厳をベースにする関係性によって、
自然と、
私も含めてチームの1人1人が決めつけからの自由度が増して、
新しい行動を自らデザインしていくことを、
関係性を使って実験中です。
今日もお読みいただきありがとうございました。