なんだか切ない北海道の地震を通して感じたこと

今回の震災を通してお亡くなりになった方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

なんとも言えない気持ちがこころの中にありますが、
まだ、自分でも何を感じているのか言葉にできずにいます。

ブログを書くことを通して、
言葉にできたら、
そんな気持ちで今パソコンの前に座りました。

当たり前の日常が、一瞬の大きな揺れによって、
失われる瞬間。

それは、住んでる地域によって大きく変わる。
命が失われた瞬間
大事な人を失う瞬間
電気が失われた瞬間
水が失われた瞬間
安心が失われた瞬間

かと思えば、
いつもと変わらないあたり前の朝を迎えた人ちもたくさんいる。

この不思議さ。

私が住んでるエリアは、
震災のあった日の当日は、
特に建物の崩壊はなく一見いつもと変わらない天気のいい日常に見えました。
スーツを着て出勤に向かおうとする人たちの姿も見かけた。

ただ、
電気がつかず、信号機が暗い
通り過ぎるコンビニがあいていない
携帯の充電が確実に減っていく

水が断水していたので、喉が渇いてく。

ずっと歩いていくと、
震災に対応して、
入場制限をしながら販売してくれているコンビニを発見して、
列に並ぶ。

久しぶりの水を、
天気のいい、
いつもと変わらない風景の中で飲んだ。

いつもと、変わらない景色だけれど、
いつもと確実に違ういまに、
なんとも言えない不思議さを感じた。

その時、初めて親族を亡くした時の感覚を思い出した。

いつもと変わらない天気のいい日で、
鳥の声も聞こえるし、
笑い声もどこからか、聞こえてくる。

けれど、
昨日あった命がなくなってしまって、
受け入れられない私の悲しい叫びがいっぱいになってる、
そのコントラストの時の感覚。

懐かしいな。

さらに、
むかし読んだ岡本太郎の言葉が浮かんできた。

とてもざっくりとしていて曖昧な記憶なのだけれど、

この世界は、宇宙の遊びなのだ
飢餓がある、紛争がある、◯◯がある
それも含めて、宇宙の遊びなのだと。
一見、遊んでいるように見せている芸術家さえも遊べてはいないんだ

というニュアンスのことば

この世界は、
ものすごい悲しみとものすごい喜びが同時に存在できるほど、
多様性があることに改めて驚くし、

だからこそ、
たくさんの喜びと悲しみを抱きしめる大きな器でありたいと思った。

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